磐座遺跡 (光明岩)

磐座遺跡

仏教伝来以前の古代祭祀の祭場(磐座)で岩の周囲は磐境で囲われ石棒が数本立てられている。石棒は神々の憑代で岩の上に載せられた平たい岩は大神の舞い降りる座と思われる。神功皇后の故事から光明岩と呼ばれ南原寺草創の場とされる。

今から1800年前、神功皇后が三韓征伐で瀬戸内を通行の時、山から盛んに不可思議な光が出ているのをご覧になり武内宿祢に調査させたところ光の元は山中の岩だった。皇后は「これは瑞兆である」とお喜びになり多くの部下をつれ山に登られ三韓征伐の誓願をこれられた。

皇后はこの地で三韓征伐の軍議もされ「評定岩」という古跡も残されている。軍議を行った場所に桜の大樹があり咲き誇っていたので「あら住吉の桜山かな」とお喜びになられたという。皇后は軍議の後、船木(宇部市楠町船木)に於いて船木氏に命じ楠の大樹で軍船48艘を造り厚保(美祢市厚保)にて兵を集め三韓征伐に向かわれた。三韓征伐の凱旋の際も再び来山され岩の下に宝剣を納め「永く夷敵の難を払い給え」と祈願されたと云う。

岩屋不動明王

岩屋不動明王

旧表参道(不動坂)の岩屋不動明王。巨石の中を潜る体内潜りもでき岩の内部は行場にもなっている。古代の巨石信仰(磐座)と修験道の行場の名残を留めている。手前の池の上には堂があり隣の敷地には不動堂があったと伝える。

馬 蹄 岩

神功皇后 馬蹄岩

岩屋不動にある神功皇后の馬が滑ったと伝えられる跡。「馬滑岩」とも呼ばれており周辺には、「神功皇后の駒つなぎ岩」 「評定岩」 「立岩」など神功皇后にまつわる旧跡も残されている。

経 塚 群

経塚群

古文書によると花山法皇の菩提を弔う為、毎年二季、経塚を造ったとされる。経塚とは教典を筒等に入れて埋納した塚で天台系において多く造られている。本堂裏から桜山山頂にかけいたるところに積石遺構が存在しており、昭和56年に花山法皇御陵に近い遺構の一つを発掘した結果、平安時代の滑石の経筒が出土し経塚であることが判明した。

伝花山法皇御陵

花山法皇御陵

花山法皇御陵の玉石

桜山の山頂付近の花山法皇御陵と伝えられ聖域とされる場所で昭和56年の発掘の結果、骨壺と火葬された骨が出土し平安時代の古墓であることが判明した。本堂裏から桜山山頂にかけては古来より神聖な聖域とされ古墓や経塚などが点在している

日吉山王権現

しゃくなげと日吉山王権現

当寺の鎮守で藩政時代は美祢郡中と下関吉田宰判の総鎮守だった。往古は里に七社、山に七社の社があったとされる。山王権現は比叡山延暦寺の鎮守であることから往古は天台系だったことが窺われる。

閻魔堂

閻魔堂と桜

閻魔堂は当初境内にあったが、後に東中峠に移転、再び境内に戻された。堂内にある閻魔像は享保年間修理と記録があるが、当初は宝物庫収蔵の十王像がまつられていたと思われる。

ぼけ封じ観音

しだれ桜とぼけ封じ観音

昭和59年に弘法大師御入場1150年を記念して、関西から九州まで至る広域な霊場「西日本ぼけ封じ観音霊場」 が設立され当寺は第23番札所となった。

照葉樹林

照葉樹林

境内を囲む照葉樹林はスダジイ主体の森で、瀬戸内の温暖な海岸地帯に生育しているスダジイ群落が海抜400m地帯に見られることは特異な事で植物の生態学上貴重なものです。 又、沿海地方に稀に見られるオガタマノキが良好に生育しているのも珍しい現象です。林内のスダジイは県内でも珍しい巨木が多く、一番大きいものは目通り5.2mの巨樹です。

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