伊佐売薬と南原寺
伊佐売薬は西日本有数の売薬業で、花山法皇の従者である道兼、米久の末流の本間治郎、内田庄右衛門が南原寺の寺領の減少に伴い暇を賜り桜山の北麓の徳定村(南原寺旧表参道口、現美祢市伊佐町徳定)に下山し修験道にて心得ている施薬を元に製薬を営んだのが起源といわれています。
売薬は修験道が隆盛していた地域に発展しており修験道と関わりのある売薬は大峰山の大和売薬、立山、白山の北陸修験道と関わりのある富山売薬、甲賀修験の近江売薬、長野の御嶽山などがあり、伊佐売薬は長門国で勢力のあった桜山南原寺の修験道が関わっています。
伊佐売薬の商圏は九州、中国、関東、北陸など広範囲であったが時代の変遷の中で衰退し、一時は隆盛を誇った伊佐売薬も昭和18年の内田神功堂の閉店を最後に歴史の幕を閉じました。
南原寺境内には花山法皇の従者である道兼、米久の子孫達の中世墓があり近臣の墓と呼ばれています。道兼の子孫である本間家、米久の子孫である内田家が徳定に下山するまでの墓所と思われます。